日米親善人形
答礼人形誕生のエピソード
▲青い目の人形歓迎会(1927年3月 日本青年館)
▲答礼人形送別会(1927年11月 日本青年館)
昭和2年(1927)春、日米両国の友好・親善を願う人々の尽力で、米国から1万2千体をこえる“青い目の人形”が日本に届けられました。その後、全国各地の幼稚園や小学校に配布されて、華やかに歓迎式がおこなわれ、社会的に大きな盛り上がりを見せました。そして、その秋、わが国から返礼として、愛くるしい大型の市松人形を「答礼人形」として米国に贈りました。
全国のこどもたちの募金をもとにコンクールで厳選されたその数は58体。「ミス東京」「ミス横浜」など日本各地の名が付けられた黒い瞳の人形たちは、もの言わぬ平和の親善使節として、当時全米で大歓迎を受けたあと、各州の美術館や博物館などへ一体ずつおさめられました。
日米の歴史に翻弄された”青い目の人形”と”答礼人形”
▲青い目の人形 「アニー」 (吉徳資料室所蔵)
昭和16年(1941)、日米の間に不幸な戦争が起こりました。この出来事によって、ほとんどが失われるという数奇な運命を辿った“青い目の人形”の物語はいまなお多くの人々により語り継がれています。
一方、海を渡った日本の“答礼人形”たちも異国の地で、望郷の思いを胸にじっと黙って歴史の流れに耐え続けてきました。日本から旅立って90余年、現在米国内では58体のうち47体の存在が確認されています。その保存状態はさまざまですが、いずれも年月による老朽化は否めず、昭和49年以降、その修復を求めて「日本への里帰り」が続いています。
なお、“青い目の人形”は現在かろうじて342体の存在が確認されており、そのうちの一体は吉徳資料室に大切に保存されています。
”答礼人形”修復里帰りに深く関わる吉徳
▲十世と ミス広島(1974年)
▲十一世と平田郷陽作 櫻子(2008年)
▲十二世と ミス三重(2010年)
この日米親善人形交流は日本の人形業界にとっても、また吉徳の長い歴史の中でも、今なお忘れがたい大きな出来事です。
当時、答礼人形の製作の指揮をとったのが、吉徳10世・山田徳兵衞(写真左1896~1983)であり、また近年の答礼人形たちの里帰りに際しては先代の心を受け継ぐ11世・山田徳兵衞(写真中央1939~2009)がその大多数の修復監修を務めました。
現在は亡き11世に代わって現社長12世・山田徳兵衞(写真右1968~、2010年襲名して純一郎改め徳兵衞となる)がその心を受け継ぎ、答礼人形の修復に積極的に参画しています。そして昭和49年(1974)の「ミス広島」を手始めに、数え上げれば、このたびの「ミス宮崎」が実に41体目の修復となります。
創業310年を迎えた吉徳の永い歴史の中で、その当主が父子三代にわたり、この答礼人形にかかわるのも、人形が結んでくれるなにか不思議な縁(えにし)でありましょうか。
吉徳と答礼人形に関する書籍
・『語りかける人形たち』(2001)/ 11世・山田徳兵衞著 東京堂出版刊
・『人形歳時記』(1996)/ 吉徳資料室長・小林すみ江著 婦女界出版社刊
答礼人形里帰り展の図録
■答礼人形 「ミス三重」里帰りの記録(2010)/ 答礼人形「ミス三重」の里帰りを実現させる会
■82年のときを刻んでー人形大使「ミス三重」(2009)/ 答礼人形「ミス三重」の里帰りを実現する会
■お帰りなさい「筑波かすみ」里帰りの記録(2008)/ 「筑波かすみ」里帰り実行委員会
■お帰りなさい「長崎瓊子」(たまこ)日米友情人形の里帰り展 (2003)
■長崎瓊子 里帰りの記録(2004)/ 「ミス長崎」里帰り実行委員会
■お帰りなさい「ミス宮城」里帰りの記録(2003)/ みやぎ「青い目の人形」を調査する会
■お帰りなさいミス香川(1998)
■ミス香川 里帰りの記録 (2000)/ 「ミス香川」里帰り実行委員会
■お帰りなさい答礼人形 青い目の人形交流展(1988)/ 社団法人国際文化協会
■青い目の人形にはじまる人形交流(1991)/ 横浜人形の家
■徳島平和ミュージアムプロジェクト(2011.3)/ 徳島県立博物館
■海を渡った人形大使(2012)/ 同志社大学人文科学研究所
答礼人形参考Webリンク集
・香川県親善人形の会
・横浜人形の家
・みやぎ“青い目の人形”を調査する会
・Friendship Dolls
・答礼人形「ミス三重」の会